ラノベの読書遍歴から見る想像力の衰え

 部屋の掃除をしていたところ、富士見のラノベで出てきた。『スレイヤーズ』『ロストユニバース』『サイレントメビウス』『オーフェン』等々。懐かしすぎる。竜波斬なんて今でも詠唱できるわけで。ソードブレイカーなどのロストシップは私がメカ好きになった原因の1割位を占めている。
 これらを読んでいたのは、小学生高学年から中学生くらいだっただろうか。*1ここで進むべき道を間違えたのは言うまでもない。

読んだ作品は学園ベースのものばかり

 で、発掘したラノベと今手元にあるラノベを見比べていてある事に気づいた。「今私が読んでる作品って学園ものばかりじゃん」と。
 正確には、キャラ設定や背景が学園の作品ばかり。これを仮に「学園ベース」とでも呼んでおく。
 シャナでしょ、文学少女でしょ、とらドラでしょ、バカテスでしょ、嘘つきみーくんもそうだし、空の境界だってそう。神様のメモ帳だって主人公は学生だし、ハルヒは言うまでもないし、さよならピアノソナタもまたしかり。みんな学園ベース。

買わなくなった作品は非学園ベース

 そして、買うのを止めた作品や積んでる作品は学園ベースじゃない。GOSICKは1巻買ったけど積んでるし*2ゼロの使い魔は1巻読了でストップ。ポリフォニカは黒と白を買っていたが、黒3巻白2巻でストップ。塩の街も絶賛積み中。

何か買うときの基準も学園ベース

 さらに言えば、新しく読み始める作品を選ぶときも学園ベースの作品を選んでしまう。時雨沢恵一の作品やインデックスはなんか読む気がしない。今月のMF文庫Jの新刊を何か買おうとしたとき、真っ先に候補からはずしたのは『聖剣の刀鍛冶(ブラックスミス) (MF文庫J)』で、おそらく『アストロノト!』か『ヒトカケラ』を買うだろう。

ファンタジーをそのまま受け入れられない

 昔の私は、学園なんて設定がなくてもファンタジーをファンタジーのまま受容できていた。魔法万歳。科学万歳。私は、私とは全てが違う主人公達に感情移入が出来ていたし、その世界を楽しんでいた。脳みそぱわー全開で、自分をファンタジーの世界の中に押し込んでいた。
 でも今の私は、それができない。おそらく「自分の中にある過去の自分」と「物語の主人公」が一致しないと物語を受容できないのだろう。自分と同一の主人公を通してでないと未知の世界を楽しめないようだ。
 これってすごく損してるよなぁ。自分の経験したことのないものを楽しめるのが物語のいい所なのに、自分の経験通さないと物語を楽しめないなんて。このままでは一生純粋なSFやファンタジーを読めないじゃないか!
 ほんと、どうしたんだろうなー。疲れてるのかな。生きるのに精一杯で、自分をファンタジーに突っ込む作業に割く脳みそパワーが余っていないか。脳みそが現実に犯されすぎていて、未知を想像することができなくなってしまったか。ファンタジーをファンタジーとして受容できていたのは中二病のなせるわざであり、今は現実に毒されすぎてしまったか。
 ケータイ小説にリアルを感じる「彼女達」と似たようなもんだ。リアルでないと物語を受容できない彼女達と、自分の過去を通さないと物語を受容できない私。大差ない。
 映像は学園ベースでなくてもいけるんだ。…いやそうでもないか。今期必死に追いかけてるのって『みなみけ』『Myself:Yourself』『げんしけん』くらいだもんな俺orz

 なんなんだろうなー。年かな。老いかな。謎である。
 あと、謎がもう一つ。何で学園ベースでないと楽しめない私が、『狼と香辛料』を楽しめているのだろうか。謎だ。

*1:記憶あいまい

*2:学園っちゃ学園だが、私が経験したことのない学園だから私にとっては学園ではない