老後なんていらない 〜死ぬ権利

 大きな荷物を持っていたので旅行帰りだったんでしょうね。帰宅時間のバス車内で、自分の事を『お年寄り』と呼び大声で話すババア軍団を見ての所感です。

当たり前への違和感

 年金における『少ない若者で老人を支える絵』に違和感を感じたことはありませんか?

 そもそもの話です。なぜ先のある若者が、先の無い老人を支えなければいけないのでしょうか。育ててくれた恩返しとして両親の面倒を見るのは良いとして、それ以外を支えるのは生産年齢人口にとって足枷です。
 『お年寄りを大切に』いう美しい言葉をそのまま信じてはいけません。倫理?道徳?なる価値感を抜きにして考えれば分かる事ですが、大切にしたお年寄りは、生産に寄与することなくいずれ死ぬのです。生産年齢人口の貴重なリソースを無駄使いしているだけです。みんなの大好きな『税金の無駄遣い』です。
 こんな無駄使いが当たり前だと感じてしまうのは、子供の頃に『お年寄りを大切に』という価値観を叩き込まれているからだと思います。もはや、老人および老人予備軍による洗脳です。

若者を虐げるライフハック

 昨今のお年寄りは恥ずかしくないのでしょうか。生産年齢人口に負担を掛けてまで長生きしていることが。
 そうは言っても、現行制度の下だと、この生き方は何の問題もありません。後ろめたさを感じる必要もありません。政治的、社会的に認められた制度なのですから。
 むしろ、ちょっとしたライフハックですよね。生産年齢人口を虐げて長生きするライフハック。これであなたも今日から病院で雑談できる!みたいな。このライフハックを使えば、老後はイージーモードです。もしくは、節約術かもしれませんね。自分の財産を使わず、生産年齢人口に金を出させる節約術。
 こんな方法で老後を生きる事が恥ずかしくないのであれば、好きにすればいいです。どうぞ自身のケツを生産年齢人口に拭かせなさい。現行制度が続く限り、私も嫌々ながら支えてあげましょう。嫌々ながらも、老人のケツを拭いてあげましょう。それが民主主義です。私が出来る事と言えば、高齢者福祉の充実を第一に掲げる候補者には絶対に投票しない事くらいです。

脱制度としての死

 とはいえ、現行制度のまま生きていくと、私もその醜い老人の一員に組み込まれてしまいます。私は、未来の生産年齢人口だけでなく息子娘にすら支えられたくない(=老いた私にリソースを割いて欲しくない)のです。私に使うお金があるならば、子供を沢山作って家族団欒を楽しんで欲しいのです。
 そんな考えの私にとって、若者に支えられて生き長らえていく老後は、社会的な苦痛です。そんな老後はいりません。
 ですから、生産年齢人口と同じ負担で家計が回らなくなった時点で、潔く死にたいです。切実に。自分のケツを自分で拭けなくなった時が死に時です。意外な事に嫁も同じ考えらしく、『おじいちゃんおばあちゃんになったら、さっさと一緒に死にたいねー』と話をする変態夫婦です。

死ぬ権利

 憲法曰く「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」のであれば、「すべて国民は、健康で文化的な死を望む権利を有する。」もアリだと思います。気持ちよく死ぬ権利です。
 とはいえ、単なる自殺だと、後片付けで生産年齢人口に無駄な負担を掛ける事になります。何よりも、痛くて気持ち良くない。
 なので、どこかの国で、社会的な苦痛から解放される為の安楽死が権利として認められ、合法化されればいいなと思います。ビジネスライクに、遺体の処理まで含めて安楽死できる社会が来ればいいのに。